令和五年成道会 法話
四の馬 ~病苦や死苦を見つめる時~
「自分はどう生きるか」皆が一度は考える命題です。それは生まれた者は間違いなく死ぬからです。また、いつ死ぬかわからないからです。
私たちは生かされている存在ですからその間をどうするか、自分はどう生きるかが命題なのです。他の生き物は死を恐れることはしても考えることはしません。人間だけが死を考えられる存在です。ですから人の死を見つめることは大切な事なのです。
お釈迦様の説法に「四の馬」という話があります。
一の馬は、ムチが当たる前に気配を感じ取り走り出す馬です。
二の馬は、ムチが毛にさわり肉に当たる直前に走り出す馬です。
三の馬は、ムチが肉に当たってから走り出す馬です。
四の馬は、ムチが骨まで食い込んでしまってから気づく馬です。
お釈迦様は話す相手に合わせて喩え話(対機説法)を用いました。
馬は人のことです。この説法は、いつ病苦や死苦を
自分の事として受け止めて行動(自分の生き方)に移
せるかを考えさせるためでした。
一の馬は、見ず知らずの人の悲報を知り行動を起こせる人です。
二の馬は、ちょっと知っている人の悲報を知り行動を起こせる人です。
三の馬は、家族や友人ら親しい人の悲報を知り行動を起こせる人です。
四の馬は、自分が重病になったり死期を知りやっと行動を起こす人です。
四の馬では遅いのです。ほとんどの人が三の馬でしょう。ですから昔から家族や友人の葬儀は大切な儀式として行われてきました。
葬儀は死と向き合い、自分がどう生きるか、どう死ぬかを考える機会なのです。丁寧な仏事によって亡き方は成仏が約束され、残された方も安心が得られるのです。葬儀は亡き方と残された方が共に救われる機会であります。
仏教や禅の教えは自分がどう生きるかを問い続けるための教えです。 お釈迦様がお悟りになった成道会(十二月八日)の時節に、葬儀への関わり方についても考えてみましょう。
谷田山東光寺 住職 石田泰光 合掌