非思量NO.306 心の鬼   ~一切衆生と仏道を成ぜん~

心の鬼   ~一切衆生と仏道を成ぜん~

東光寺の本堂と山門の解体工事が完了しました。長年、本堂の最も高い屋根の端に設置されていた鬼瓦も取り外されました。この鬼瓦は大切に保存させていただきます。

鬼というと角や牙を生やし手には鉄棒を持った筋骨隆々の姿を思い浮かべる方が多いと思いますが、必ずしもそのような鬼ばかりを「鬼」としている訳ではありません。例えば「鬼籍に入る」の鬼籍とは亡くなった人の名前や命日を記す帳面の事で鬼は先祖の霊の事です。仏教では、もとは人を襲ったり疫病をもたらしたが、後に守護神となった鬼神たち(夜叉、羅刹)が多数います。中でも過去世で童子だった修行中のお釈迦様(雪山童子)と羅刹との説話「施身聞偈」が有名です。童子の自分を犠牲にしてまでも約束を守った姿に羅刹が帝釈天の姿に戻ったという説話です。

鬼だけでなく私たち人の心の中にも鬼が棲むと言われます。

「鬼の目にも涙」とは無慈悲な人も慈悲心を起こすことの謂いであり、

「疑心暗鬼」は疑いの心が暗がりに本来ありもしない鬼の形を見せることです。猜疑心から生じる恐怖や不安の例えでもあります。

このように鬼であれ、人であれ、誰しも善悪に揺れる心を持つことを自覚し慎しむことが大切であり、そのような心で生活していけば、一切の衆生は皆、救われるというのが仏教の教えなのです。

節分の豆まきは「鬼は外」「福は内」と唱えることが有名ですが、本来は禍福という言葉からも解るように「福」の対義語は「禍」です。自分の心の鬼を追い出すというより、自己中心的な考え方から心の鬼を生む自分を自覚して災禍を避けるよう努める事が大切だと思います。
コロナ禍の今の世、そのような考え方が必要ではないでしょうか。

参考文献「禅の風    第50号」

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