令和六年十月梅花講法話資料「梅花流の願い」

令和六年十月梅花講法話資料「梅花流の願い」

第一番洞慶院御詠歌
梅匂う久住くずみの山のすずしさや とわにみ親の里と称えん

 羽鳥の洞慶院は詠讃歌梅花流の発祥の地です。
 宗務所内百八ヶ所を廻る静岡梅花観音霊場の一番札所でもあります。
 み仏の教えを伝える詠讃歌は曹洞宗にとってその誕生は七十年前に遡ります。
昭和二十年代、日本は終戦の混乱に見舞われていました。この時代、人々は毎日
の生活に追われ心の豊かさなど顧みる余裕はありませんでした。戦争で夫、息子
を亡くし、婦人たちは悲しみに暮れていました。僧侶も同じような状態で人々を
救う手立てはありませんでした。
 この戦後の混乱の中、大本山永平寺の監院であった羽鳥洞慶院住職の丹羽仏庵
和尚には秘めた思いがありました。
「人々に心の豊かさを与えたい。」「釈尊の正しい教えで人々を救いたい。」
「その為に心の底から響き渡る仏教音楽を広めたい。」
 そして、詠讃歌講の設立を切願しました。
 昭和二十七年の道元禅師七百回大遠忌を控えて、大本山監院を辞し、洞慶院に
戻られていた仏庵和尚は、静岡の若き僧侶を集め、詠讃歌講設立の思いの丈を語
りました。感銘を受けた若き僧侶たちはプロジェクトチームを結成しました。
 その時のメンバーが、安田博道(然正院)、大賀亮谿(見性寺)、大島賢龍(法
泉寺)、丹羽廉芳(一乗寺)、遠山弘文(法蔵寺)の五人です。
 曹洞宗には仏教音楽が無かった為、若き僧侶たちは様々な他宗の詠讃歌を学び、
真言宗の光厳流こそが我が宗派の師であると決心し、赤松月船らに寄って作詞さ
れた歌詞に曲を付けていきました。

 梅花流という名称は、洞慶院の梅の木に因んで名付けられました。
 昭和三十年、梅花流詠讃歌の繁栄を夢見て遷化された仏庵和尚の意志を継いだ
弟子の丹羽廉芳和尚は梅花観音の建立を志しました。
 廉芳和尚の「誰もが気軽に梅花流詠讃歌を唱え、観音様に手を合わせ、明るい世の
中を作ることができるようにすることが梅花流の真の目的である」という思いは、静
岡宗務所管内の各お寺に広がり、以後、洞慶院は梅花流の聖地となったのです。
 今月から法幢寺様と合同で再開する梅花観音霊場参り、御先師様方の努力に感謝し、
平和な世界を願って心を込めてお唱えいたしましょう。

谷田山東光寺住職石田泰光合掌

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