坐禅会 No.350 令和五年 年末の法話「追善供養の心」

令和五年 年末の法話
追善供養の心
令和五年も残すところ一週間あまりとなりました。
この一年間の無事と、大恩あるご先祖、父母への報恩感謝の心を思い起こしていただき、新しい年を新たなお気持ちでお迎えいただきたいと思います。
お寺で行うすべての事柄を法事と言います。その中で本法要のように亡き人の供養の為に行う法事を「追善供養」と言います。すなわち、功徳を修めて善事を行い、亡き人の世界( 浄土) を美しく住みよい世界にするという意味です。
追善供養の追善とは霊に対して報恩感謝の誠をささげる為に善事( 読経、供物、焼香等) を行い、その功徳を回向し、亡き人の成仏を願うことです。そこには見返りの気持ちはありません。
回向とは亡き人が涅槃浄土に生まれ変わり、苦の現実の中で生きている人々を救おうと願う事でもあります。
回向には「七分攫一」という言葉が示すように、亡き人は受けた功徳の七分の一しか受け取らず、残りの七分の六は生きている人に回してくれるという教えです。
また、亡き人の法事を営むことによって、その人自身が仏のみ教えと出会い、学ぶことができるという仏縁の功徳をいただく機会でもあります。
法事は心を洗う「洗心」の場であると示された祖師様もいらっしゃいます。
梅花流詠讃歌に追善供養御詠歌「妙鐘」という曲があります。

打ち鳴らす鈴鉦の響きはお唱えの心と調和して、亡き人々への追慕の念を呼び起こします。
まるで三世( 過去、現在、未来) の御仏が絶えることなく教えを説き続けられているかのようで心が洗われます。
人はうつり変わりゆくはかない存在であることに早く気づいて、今を生きる身命が掛け替えのないものであることを識らねばなりません。
お唱えしながら打ち鳴らす鈴鉦の響きが余韻を残して消えゆくように、人の生命もやがて消え去ることを、諸行無常、諸法無我とお釈迦さまは説き示されました。
追善供養は、亡き人を偲ぶと共に自分自身の生き方を仏の教えに照らし合わせて、誤りがあればそれを正し、己の日常を反省する場です。
この曲でうちならす鐘は、大みそかの除夜の鐘に例えてもよいと思います。追善供養の心を思い起こして新しい年をお迎えください。
谷田山東光寺 住職 石田泰光 合掌

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