自己を忘れる
道元禅師は、『正法眼蔵』「現成公案」の巻でこう示されてます。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法(まんぽう)に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。 |
「仏道を習うということは、自己を習うのである。自己を習うというのは、
自己を忘れるのである。自己を忘れるというのは、万法(あらゆる存在)
に証(さと)らされるのである。万法に証らされるというのは、自己の身と
心、そして他人の身と心をがなくなってしまうのである。」
仏道を習うということは、自己を習うことであるというのは基本的
なことです。決して知識や教養を身につけることではなく、自分自身
を明らかにすることが仏道です。しかし、自分自身を明らかにするこ
とができると、その自分を忘れなければならない、つまり、自分への
執着を離れなければならないことが解ってきます。
自分を忘れたときにどうなるのか。万法(あらゆる存在)に証らさ
れる。自分が証るのではなく、自分を忘れ、エゴを離れたとき、自ず
と証りがやってくるというのです。
その時、自己の身と心も、他人の身と心もなくなってしまうという
のは、自分と他人の境がなくなってしまうということです。
吾我を離れたとき、自分に対する執着がなくなり、「俺が、俺が」
という心がなくなるのです。そして比較したり、競争したり、対立す
ることがなくなるのです。それこそが仏法の世界なのです。