常楽我浄『延命十句観音経』を学ぶその7
仏さまには四徳(しとく)があると言われます。
①常楽…永遠であること
②楽徳…安楽に満ちていること
③我徳…絶対であること
④浄楽…清浄であること
上記の頭文字を結ぶと「常楽我浄」となります。
『延命十句観音経』の主人公は観世音菩薩ですから、観音さまの四
徳のことです。また、「常楽我浄」を自らの生き方の指針として「常
に楽しく我清く」と親しめる語訳で理解してもいいです。
常というのは変わらないということです。この世は諸行無常の世界
ですから変わらないものなど一つもないのですが「一切は移り変わる」
という真理だけは変わらないのです。私たちの生命は刻々と変化し老
化していきます。一呼吸の間にも激しく変化していきます。その事実
に目覚め、だからこそ一刻一刻を大切にしていこうというのが常の世
界です。「無常の世界を生き生きと歩む」、その心を備えていること
を常徳といいます。
楽というのは、私たちが日常で味わう「楽しみ、苦しみ」の楽では
ありません。それを乗り越えたもう一つ上の楽なのです。苦しみ、悲
しみ、せつなさ、むなさし、そういうものを抱えながら、それにとら
われないで生きる静かな微笑みの世界、これを「大楽」といいます。
静寂の中で悟れる者の安楽ということです。
我というのは、他と関わりのないたった一人の自分、ということで
はありません。あらゆるものとかかわり合っている、一切のものと切
り離すことのできない自分、とういことです。この世は身近なところ
で、遠いところで一切がかかわり合っているのです。ヨコばかりでは
ありません。タテの線(過去から未来へ)を見ても同じです。今日、
このように参加できるのも、自分を病身にしてしまう何もなかったと
いうことです。つまりヨコからもタテからも守られているということ
です。観世音菩薩のはたらきは、すべてのものとかかわりをもつ我の
はたらきです。そして、その力は、すべての人たちの心にも備わって
いるものです。それを生かして生きるところに私たちの生きる意義が
あります。
浄は清浄であるということです。表面的なきれい、きたないを超え
た人間本来の清浄さを言います。汚れたドブ池に落ちたわが子を水が
汚いからと言って救い出さない母親がどこにいましょう。出ろと言わ
れなくても出るときに涙は出ます。理屈でない美しいものが私たちを
つき動かしているのです。仏さま(観世音菩薩)は、常にその一心で
おられるので浄徳なのです。
「常楽我浄」は観念の世界であってはならないでしょう。苦しんで、
苦しんで、今にも死にそうな子たちを目の前にしたら、どうすればい
いか話し合うのではなく、まず抱き上げなければなりません。その行
為こそが慈悲の心です。観世音菩薩はそれをさらっとやってのけます。
私たち人間のなかに、それを黙って笑顔で行える人がいるとすれば、
その人はそのままで観音さまであると思います。
コロナ禍の中、不安と疑心に苦しむ生活で、「常楽我浄」のこころ
は、自分も他人も救う教えではないでしょうか。